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ポテチの水彩絵の世界にようこそ! 気分でコメントや画像とか、恐いのや面白い毒ある話とか、 現実の花の色と違ったりとか、妙な感じです。
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タラちゃんが交通事故で亡くなり、1年が経っていた。
今だに姉さんはショックから立ち直れないでいる。
だけど傍からみれば、以前となんら変わりのない元気な姉に見えるだろう。
それは、姉さんの中では全てが以前のままだからだ。

「なに言ってるのよカツオ、タラちゃんならここにいるじゃない」
ボロボロになった縫いぐるみを抱いた姉は、
それを我が子だと信じているのだった。
「何言ってるんだよ姉さん、しっかりしてよ……」
「私はしっかりしてるじゃない。あんたこそ顔色悪いわよ。ねえ、タラちゃん」
姉さんは同意を求めるように腕の中の縫いぐるみに微笑みかける。
もちろん、縫いぐるみは何も答えない。

「今日の夕飯はハンバーグにしようかしら。カツオが元気になるように」
「わ、わーい…… やったー」
「タラちゃんも好きよね、ハンバーグ」
もちろん、縫いぐるみは何も答えない。



「カツオ、私は夕飯の支度をするから、あんたはタラちゃんと遊んでてくれる?」
「え? わかった……じゃあ、あっちで遊ぼうか、タラちゃん」
僕は姉さんから縫いぐるみを受け取った。
抱き抱えるとだらりと四肢が垂れた。
僕はそれを持って素直に自分の部屋へと向かった。
とても姉さんの視線が届くところにはいられなかったからだ。
(とても長文です。続きは "つづきはこちら" をクリックしてください)






「あ、ワカメ…… ここにいたんだ」
「うん、……あ」
ワカメは振り向き、僕の手にある縫いぐるみに視線を向けると、
僅かに表情を強張らせた。
縫いぐるみを息子だと思い込む姉についてどう思っているのかなんて
話したことはない。
しかし、ふさぎ込んだ姉さんの姿よりは今の方が絶対にいい、と
考えているのはきっと同じだろう。
「お兄ちゃん、それ……」
「ああ、姉さんがタラちゃんと遊んでろってさ」
「ちょっと貸して」
「何すんのさ、ワカメ」
「……ここ、ほつれてきてるわ。直さないと……」
縫いぐるみは姉さんが四六時中連れ回しているせいか、
ずいぶんとボロボロになっていた。




男の子の形を模したその縫いぐるみは、タラちゃんに似ていたからつい、と
父さんが買ってきたものである。
タラちゃんが亡くなってか1ヶ月程経った頃のことだった。
皆はそれを見せたら姉さんがタラちゃんを思い出してよけいに悲しむのではないか、
と懸念していたが、事態は予想外の方向へ向かった。
「あら、タラちゃん! こんな所にいたのね」
仏壇の近くに置いていたその縫いぐるみを、
姉さんが明るい声を出しながら抱き上げたのだった。

久しぶりに見る姉さんの笑顔に、家族は皆喜んだ。
タラちゃんを失った悲しみは癒えはしないだろうけど、
しばらくはこれで気を紛らわせるのではないかと思った。
1日中暗い部屋に篭り、ろくに食事もとれない様な生活になっていた姉さんは、
その日から変わった。
いや、元の姉さんに戻ったのだ。
タラちゃんという存在が欠け、
崩れていたバランスが縫いぐるみによって埋められたからだと思う。

姉さんは縫いぐるみに「タラちゃん」と呼びかけ、
まるで本当の息子の様に接した。
皆、はじめの頃はそれを暖かく見守っていたけれど、
それが1ヵ月経ち、2ヵ月経ち、
変わらず縫いぐるみを可愛がり続ける姉さんに、
さすがに不安に思えて来た。




ある日のことである。
ついに母さんが姉さんから縫いぐるみを取り上げようとした。
「ちょっとサザエ。もういい加減にしたらどうだい」
「え、何よ? 母さん」
「これは……」グイッ
「ああっ、駄目よ! そんな乱暴にタラちゃんを引っ張っちゃ!」
「これはタラちゃんなんかじゃないのよ」
「あ、ああ……」
「分かってくれたかい?」
「ほら、母さん、タラちゃんが痛がってる!  離してあげて!」
「サザエ、あんた……」
「もう、母さんったら。タラちゃん、大丈夫?」
姉さんはすっかり縫いぐるみをタラちゃんだと思い込んでいたのだ。



その件以来、母さんは姉さんのことには触れない様になってしまったし、
他の家族も、もっと時間が経てば元に戻るだろうと楽観的に考えていた。
それに、もうどうしようも無かったのだ。
父さんと母さんは古い人で、
姉さんを精神科に連れていくことを決断しかねていた。
マスオ兄さんも我が子を失った悲しみは深く、
自分以上に傷ついている妻を狂人扱いすることは出来なかったのだと思う。

そうして今に至る訳だが、
1年近く使われ続けている縫いぐるみはところどころガタが出てきている。
ワカメや母さんが、姉さんの目の届かないところで直しているのだが、
いずれ限界がくるだろう。
「ワカメ、それ、まだ大丈夫そうかい?」
ワカメは頭部に綿を詰め足しながら曖昧に頷いた。
「うーん、そろそろ危ないかもしれないわね。お兄ちゃん」
薄汚れた縫いぐるみがワカメの手の中でグラグラと揺れた。



綿を詰め終わり、開いた部分を針と糸で縫い合わせるワカメの手元を
僕はポカンと眺めていた。
何度もやっている作業のためか、
手慣れた手つきでスムーズに動く針の動きに見とれていると
不意に首筋に視線を感じた様な気がした。
「……誰?」
僕は勢いよく振り向く。
瞬間、ぴしゃりと襖が閉められた。
何となくわかっているせいもあってか、
それを開いて後を追い掛ける勇気は僕には無かった。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「あ、ああ…… 誰かが僕たちを覗いてたみたいだったからさ」
「もしかして……!?」
「大丈夫だって。……それは、ないよ」
そんな根拠はどこにもないのだけれど僕は掠れる声で呟いた。
「姉さんのわけ……ないじゃないか、ははは」



やがて母さんの声に呼ばれ、僕とワカメは夕食の席に着いた。
「さ、さあ、タラちゃん、姉さんのところに行きなよ」
僕は姉さんの隣に縫いぐるみを置いた。
先程のあれは本当に姉さんでは無かったのだろうか。
もし部屋を覗いていたとしたら、
ワカメが縫いぐるみを修理していたのを見ていたかもしれない。
姉さんにとってこの縫いぐるみはタラちゃんなのだ。
その体を開き、針を刺すなんて光景はどの様に映るだろう。
「さあ、タラちゃんいらっしゃい。おいしそうなハンバーグでしょう」
僕は笑顔で縫いぐるみを抱き抱えるいつもの姉さんに、
心の中で安堵のため息をついた。

「はい、タラちゃんあーんして」
「おいしい? そう、うふふ」
「あらー、駄目じゃない。こんなにこぼしちゃって……」
「タラちゃんもそろそろ、ひとりで食べられるようにならなきゃ駄目よ」
食卓で姉さんの楽しそうな声だけが響く。
縫いぐるみは口に押し付けられた食べ物を
ただボロボロと床に落とすばかり。
最近ではすっかり見慣れた我が家の食事風景だ。

「あら? どうしたのタラちゃん」
「もう食べないの?」
「食べたくないって、どうしたのよ」
「頭が痛いの? うーん、風邪かしら?」
「少しお部屋で横になりましょうか。そうね、それがいいわ!」
「ねぇ母さん、私タラちゃんを休ませてくるわね」
姉さんから心配そうな言葉が、今日はやたらと続く。
どうやら縫いぐるみの具合がよくないらしいのだ。
「あ、ああ。……そうかい」
姉さんは縫いぐるみを大事そうに抱き抱えると、
寝室へと向かった。



僕らが食事を終えても、姉さんは戻らなかった。
特に気にもせずに、母さんとワカメは食器を片付け、
父さんとマスオ兄さんは晩酌を始めていた。
そして観たいテレビもなかった僕は、部屋に戻って
中島に借りた漫画でも読もうかと廊下へ歩き出した。

姉さんたちの寝室の前を通過する時、妙な音が聞こえてきた。
思わず立ち止まって耳を済ませてみると、
その音はどうやら人の囁き声の様だった。
止めておけばいいものを、いつものクセで
僕は思わずそのまま立ち止まり、耳を襖にくっつけた。
「……大丈夫よ、タラちゃん。……大丈夫だからね」
どうやら姉さんがタラちゃんを気遣う言葉をかけている様だった。
どこか抑揚を無くした様なその声に、僕は少しだけ違和感を覚えた。
「大丈夫だからね。すぐに良くなるわよ、すぐに……」
僕の頭の中には、姉さんがタラちゃんに添い寝をしてあげている
微笑ましい光景が浮かんだ。
ほんの2年前には当たり前だったあの光景。
「ほらね、こうやって悪いところを……」
頭が痛いと言っていたから、撫でてあげているのだろうか。
たとえ全てが姉さんの頭の中で作られた話であっても、
当たり前な親子の会話が部屋の中で交わされている。
だけど次の瞬間、
頭に浮かんだ微笑ましい親子の図は音もなく崩れさった。



「痛いところ全部…… とってあげるからね」
プチプチと何かを引き契る音が聞こえてきた。
とってあげる、とはいったい何のことだろう。
縫いぐるみを我が子と思い込んでいるはずの姉さんが
いったい何をしているのか。
僕の頭の中で警報がなっている。早くこの場を離れろ、と。
さもなくば、みてはいけないものを見てしまうぞ、と。
だけど、僕はその場から動けなかった。
「ほら…… これが悪いのよ。悪いものを詰められて…… 痛かったでしょう?
 可愛いタラちゃんに針を刺してこんなことを……
 可哀相に…… 可哀相に…… うっうぅ……」

見られていたのだ。
ワカメが縫いぐるみを直していたところも全部。
ぞくっと、僕の背中に悪寒が走った。



「うっううぅう……」
部屋の中からは姉さんの嗚咽の混じった声が聞こえてくる。
僕は相変わらず一歩も動けないままに、部屋の襖を凝視していた。
その時、不意に肩を叩かれ、
僕は「ヒッ!」と情けない、声にもならない様な短い悲鳴を漏らした。
「お兄ちゃん? 何やってるのよ、こんなところで」
「ワ、ワ、ワカメ……」
いつもの調子で話し掛けてくるワカメに、僕は震える声でようやく答えた。
頭の中では姉さんに気づかれてしまったのではないかということでいっぱいで、
1秒でも早くこの場から立ち去りたかった。
「母さんにこれを姉さんの部屋にって頼まれたのよ」
ワカメの手の中には水とお粥の乗った盆があった。
母さんが、姉さんに縫いぐるみに食べさせるようにと作ったものだろう。
「そこ、開けてよ、お兄ちゃん」
「……」
僕は瞬時に返事を返すことが出来なかった。
ワカメはまだ知らない。
姉さんがさっき僕らの部屋を覗いていたということを。
この部屋の中で起きているであろうことを。

開けてはいけない、そんな予感が頭に渦巻く。
だけどいつの間にか止まっていた姉さんの嗚咽に、
先程の声の現実感が薄らいでいた。
中にいるのは僕の姉さんだ、それは紛れも無い真実。
姉さんの部屋の襖を開けることにどんな危険があるものか。
僕は、静かに襖を横に引いた。



「お姉ちゃーん! こ、これ……」
一歩先に部屋へ踏み出したワカメの足が止まった。
「ど、どうしたんだい、ワカメ?」
僕は固まってしまったワカメを押しのける様に姉さんの部屋を覗きこんだ。
「姉さん……?」
「いやあぁあああ!」
ワカメは悲鳴を上げると手に持っていた盆をひっくり返しながら、
その場から走り去った。
僕は何も反応することが出来ずに、姉さんをただ眺めていた。

部屋中に散乱する白い綿。
縫いぐるみにぎゅうぎゅうに詰められていたそれを全て引きずり出されていた。
抜け殻の様になった布を抱きしめた姉さんが虚ろな目でこちらを眺めていた。
「……」
何やら懸命に口を動かす姉さんに
はじめは何かを話しているのかと思ったけれど、違った様だ。
中身の抜けた縫いぐるみを持った逆の手を口許に運んでる。
その手には綿が一掴み握られていた。
姉さんはそれを食べていたのだ。



僕は状況を理解するのに少し時間がかかった。
その間にも姉さんは何度か手を動かし、口いっぱいに綿を詰め込む。
「うっうううぐっ」
「姉さん!」
姉さんの苦しそうな声に僕はようやく動くことが出来た。
「何やってるんだよ!」
僕は姉さんの口に手を突っ込むと、中の物を掻き出そうとした。
「なんでこんな…… 窒息しちゃうよ!!」
姉さんは綿をほとんど飲み込んでいた様で、
僕はそれを吐かせなくてはと、片方の手で背中を叩き、
もう片方の手の指を喉の奥へと押し込んだ。
「うあえっえおぉ」
「痛いっ!!」
姉さんは苦しかったのか、僕の指の付け根を強く噛んだ。
僕は痛さに指を引いたけど、噛み付く力が強すぎて抜けない。
「ふうぅうう、ふうぅううぅ」
姉さんは荒い呼吸を繰り返している。
僕は空いている方の手でその背中をさすった。
噛み付かれた手は姉さんの口の中で血を流し、
唇から僕の指を伝って流れていった。



「ちょっと、サザエッ!? な、な、なんだい、これは……」
きっとワカメが呼んだのだろう。母さんが部屋に入ってきた。
一瞬動揺した様だが、
気丈な母さんはすぐに状況を把握して、僕らの側に座った。
「サザエ、サザエわかるかい? ほら、カツオの手を離しておやり」
「うぅう……」
母さんの言葉が届いたのか、一瞬顎の力が弱まった。
その隙に僕は手を抜いた。
かみ砕かれ無かったのは幸いだけど、
指の根本には引き裂かれた様な傷があった。
鋭利な刃物でつけられた傷よりも、
そうでない物で切られた方が酷い怪我になるという。
この傷はしばらく残りそうだ。

「ほら、ゆっくり口の中のものを出しなさい。苦しいでしょう」
「うあぉお……」
姉さんは母さんに背中をさすられながら、口の中の綿を吐き出していく。
僕の血で染まった綿は、まるで真っ赤な髪の毛の様にみえた。
「あぁあっ……タラちゃ……が」
「サザエ、これはタラちゃんじゃないんだよ……」
「ううぅうああぁあ」
姉さんは母さんの膝に顔を埋めて泣いた。




次の日、何もかも元通りになったかの様だった。
母さんと姉さんはいつも通り2人で並んで朝食の支度をしていたし、
笑い声も響いていた。
ただ、そこにはもう縫いぐるみはなかった。
ワカメは昨日の出来事がショックだったのか、口数が少なかったけど、
明るく笑う姉さんを眺める視線に暗いものはなく、
学校に行く時間にはいつもの彼女に戻っていた。
縫いぐるみをタラちゃんと呼んでいた姉さんは以前と変わらない様でいて、
やはりどこか異様だった。
だけど今朝の姉さんは昨日までの姉さんとは雰囲気が違っている。
きっとタラちゃんを失ったショックから立ち直り、
現実を受け入れられる様になったのだと、僕はそう思っていた。

「ただいまー」
学校は何事もなく終わり、僕は家に帰って来た。
台所では姉さんが昨日のハンバーグで使った残りであろう、
ひき肉をこねていた。
母さんは買い物にでもいったのか、ワカメはまだ帰っていないのか、
2人とも姿が見えなかった。
僕は別段気にも止めずに、駆け足で部屋へと向かう。
中島たちが野球をするためにいつもの公園で待っているのだ。
昨日の姉さんに噛まれた傷口も、巻かれた包帯こそ痛々しいが、
痛みはすっかり引いていた。
僕は早く出掛けたいために、
はやる気持ちを抑え切れずに机の上にランドセルを放り投げた。

「いってきまーす!」
靴を履く時間ももどかしく、僕は公園へと走りだした。
だけどしばらく走った後、バットとグローブを忘れて来たことに気がつき、
僕は元来た道を引き返すことになった。



「お、ワカメも帰ってきたのか」
入れ違いになったのだろう。
僕が玄関に戻るとワカメの靴が揃えて置かれていた。
「あれ? そういや…… 姉さんはどうしたんだろう?」
さっきは台所にいたはずの姉さんがいない。
だけど早く野球に行きたい僕は特に気にも止めずに自分の部屋へと急いだ。

「あれ」
てっきり部屋にはワカメがいるものだと思っていた僕は、
誰もいないことに拍子抜けしてしまった。
姉さんの部屋にでもいったのか。
「姉さんの……部屋」
僕は昨日の出来事を思い出し、少しだけ顔をしかめた。
何故だか胸騒ぎがする。
だけど、さっき机の上にぶちまけられたランドセルの中身に目をやると、
そちらに気を取られて勘違いの様な不安なんて吹き飛んでしまった。
「これは……
 まずいまずい、テストの答案がまる見えだ」
今日返された限りなくゼロに近い数字がかかれた紙を僕は慌てて拾いあげた。
こんなものが姉さんに見られたら、父さんに言いつけられて大目玉だ。
その答案用紙も含め、散らばった荷物をそのままランドセルに詰め直し、
僕は目的のバットとグローブに手を伸ばそうとした。
その時、廊下の方から物音が聞こえた。

ズル……ズル……と何かを引きずるような音。
そして言葉までは聞き取れないが、何かをぶつぶつと呟くような声。
「姉さん……?」



僕は何故かその音の正体を確かめることが出来なかった。
襖を開け、廊下に出てしまうのは簡単なのに、
どうしても足が進んでくれない。
「こっちに来てる……?」
その場に動けないでいるうちに、
姉さんの声は確実に近づいてきているのがわかる。
昨日姉さんの部屋の前で感じた、警告音の様な、嫌な感覚が全身に広がる。
姉さんはいったい何をしているのか確かめたい。
この場から逃げ出してしまいたい。
確かめなくては。
逃げなくては。
2つの感情が僕の頭の中で渦巻いて結論が出ない。
逃げようと思えば窓からでも逃げられるのだし、
確かめるのには廊下に出てしまえばいいのだ。
だけど僕はそのどちらも選ばず、部屋の中に留まることにした。

 

押し入れの中に身を隠し、息を潜める。
姉さんがこの部屋に入るとは限らないが、
もしもの場合にいきなり鉢合わせてしまう事態を避けるためだ。
押し入れに入ってしまうと謎の音も姉さんの声も聞こえない。
押し入れの襖の模様に紛れるように空けた小さな穴から外を伺う。
そこにはただの日常が広がっていた。
なんの変哲もない僕とワカメの部屋だ。
ただ布団に圧迫された状態で
押し入れに隠れている僕が息苦しい思いをしているだけだ。

しばらくそうしていたが、
姉さんが入って来るわけでもワカメが入って来るわけでもなく、
時間だけが過ぎた。
先程僕が感じた危機感の様なものなんて、とうの昔に薄れて消え去って、
なんだか隠れているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
もうやめよう、これはきっと気のせいだったのだ。
だって、今朝の姉さんはあんなに明るくて、いつものあの笑顔だった。
口うるさくてお節介な僕の姉さん。
ただそれだけなのに、僕はなんで隠れていなければならないのか。

「……出よう」
そう思い押し入れを開けようと手を掛けた瞬間、
廊下と僕の部屋を繋ぐ襖が開かれた。
ベチャリ
そんな音を立てて、何かが投げ込まれた様だ。
それがいったい何なのか、僕にはなかなかわからなかった。
「あれー? カツオは帰って来てたんじゃなかったのかしら?」
真っ赤で、同じ色の液体を滴らせるそれはワカメの服を着ていた。
「おかしいわね。1度出てってからまた戻ってきたと思ったのに……」
言葉だけ聞けばいつもの姉さんとなんら変わらないのだが、
感情の篭らない声と、襖の小さな穴の隙間からかすかに見える虚ろな瞳は、
まるで昨日の姉さんの様だった。

姉さんの服や顔に飛び散ったものと、ワカメの服を着た物を染めるその色が、
誰かの血の色なのだと気づくにはしばらく時間がかかった。
誰のかなんて信じたくはないし、信じられる様なことではないけれど、
そこに転がっている赤い塊はワカメで、流れている血は彼女のものなのだ。
服から出ている部分は原形を留めない程にぐちゃぐちゃで、
何かに切り刻まれたかの様な状態なのに、
真っ赤に染まった服をそれでも着こなしているのは
どこか不思議な光景だった。

突然のことで麻痺した恐怖心が僕に悲鳴を上げさせようとしている。
それを口に手を押し込み堪えた。
くしくもそれは昨日姉さんに噛まれた方の手で、
傷口に僅かに走る痛みが僕の思考をなんとかつなぎ止めていた。

「ちょうどいいところに帰って来てくれたと思ったのに、
 勘違いだったみたいね」
何がちょうどいいのかはわからないけど、
姉さんの手に握られた包丁をみるかぎり、
僕にとってはちょうど良くないことに違いない。
おまけに反対側の手にはあの縫いぐるみが抱かれていた。
「ごめんね、タラちゃんもう少し我慢してね」
姉さんはまた縫いぐるみに話しかけ、本当の我が子にする様に笑いかけた。
不思議なのは、
昨日、綿を抜かれてぺしゃんこになっていたはずのそれが、
今は妙に膨らんで見えたことだ。

「昨日のタラちゃんはタラちゃんじゃなかったのよ」
「そうそう。だって、母さんもそう言ってたしね」
「だって、中身があんなに軽くてふわふわしていたもの」
「だからね、もう一度、ママの体に戻そうと思っていたけど、
 もっと簡単に出来るって気がついたのよ」
「タラちゃんの体を取り返せばいいんじゃないって」
姉さんのぶつぶつと呟く声が耳に届く。
言っている内容はめちゃくちゃなのだが、
今の姉さんに見つかることは非常に危険だということは分かった。
無惨なワカメの姿を見ても、
可哀相だとか酷いだとかの感情が浮かぶのではなく、
ただ恐怖だけが僕を捕らえている。
「きっとワカメがタラちゃんをこんな目に合わせたのよ。
 体を奪って綿と詰め換えていたのよ」
だからワカメから取り返したのだろう。
ワカメの体から肉を削り取り、縫いぐるみに詰めた。
縫いぐるみから滴る血も、全部、ワカメのもの……
「でもワカメからばっかりじゃ可哀相よね、カツオだって悪いんだもの」
僕の名前があの声で呼ばれた時、思わず体が強張った。
「きっとワカメに何か吹き込んだのね。あの子のやることだわ」
僕はどこかで音を立ててしまっていないか、
速まった心拍と同じリズムで手の傷がドクドクと脈打った。
「タラちゃんが酷い目に合わされているってのに黙って見てるだけなんて」
「カツオのことだから、きっと面白がってやったんじゃない?」
「そうね、きっとそうだわ。
 ワカメはこれで許してあげる。体が軽くなりすぎちゃったでしょう」
「台所にお肉を用意しておいたから足りない部分に足すといいわよ」
姉さんは動かないワカメを揺さぶりながらそんなことを言っていた。
もしかして、あの状態でまだ生きてるのか?
いや、ワカメはきっともう死んでいるはずだ。
口の端を微かに歪めて笑う姉さんだけが楽しそうにみえる。
すると姉さんは虚ろな視線をフラフラと漂わせて、ある一点で止めた。
「あら」

「やっぱりカツオ、帰って来ていたのね」
僕は一瞬見つかったのかと思った。
だけどそれは単なるはやとちりで、
姉さんが見つめていたのは僕の机の上だった。
「さっきは中身が散らばっていたのに……きれいにしまわれてる」
いつ見たのだろう。
僕が一度目に帰宅してから次に戻ってくるまでの間に違いないだろうが、
その時にはワカメはどうしていたのだろうか。
すでに姉さんに肉を削がれた後だったのだろうか。
それを考えると胸が裂けそうな思いで苦しかったが、
妹の悲惨な最期を哀れむ余裕など今の僕にはないのだ。
「まだ家のどこかにいるのかしら。
 ちょっと探してくるからここにいてねタラちゃん」
ベチャリと音を立てて血だまりの上に、肉の詰まった縫いぐるみが置かれた。
もしも姉さんに見つかってしまえば、僕もああなってしまう。
それは、絶対に、避けなければいけない。

ワカメを殺した時に刃毀れしたのであろう包丁は、
傾き掛けた太陽の光で凸凹と化した刃先を浮かび上がらせている。
それを手にした姉さんがくるりと後ろを振り向いて
この部屋から出ていくそぶりをした瞬間、
僕は安堵のため息を漏らした。
……それが、いけなかった。




息と共に体の力が抜け、床の一点に体重が集中してしまう。
ギシリとなる床の音は静か過ぎるこの部屋に響き渡るには十分過ぎる程だった。
ピタリと動きを止めた姉さん。
僕は押し入れから飛び出して姉さんに体当たりでもしてみようかと考えた。
だけどそれを実行するには、この体の震えを止めなければ、
立ち上がることさえも出来ないだろう。
僕は襖の穴から外を覗くのを止めた。

……これが走馬灯というものなのか、様々な光景が頭に浮かんで消える。
こんな時だからなのか、みんなの笑顔や楽しかった思い出ばかりが出てくる。
そういえば母さんは町内の婦人会で今日は遅いって言っていたなとか、
中島たちは今日僕が行かなくても野球をしているんだろうなとか、
花沢さんのお母さんを最近初めてみたけど、けっこう美人だったなとか、
今の僕には遠い世界の話のような言葉が浮かび、
目の前の暗闇が裂けた。
「タラちゃん、今できるからね」
その声の聞こえた後、
姉さんが襖を開いた。



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プロフィール
HN:
ポテチ/ラダ
年齢:
50
性別:
男性
誕生日:
1974/04/11
職業:
会社員
趣味:
単館系映画鑑賞、音楽や絵画鑑賞、そして絵を描くことと...
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