ポテチの水彩絵の世界にようこそ!
気分でコメントや画像とか、恐いのや面白い毒ある話とか、
現実の花の色と違ったりとか、妙な感じです。
「 "手術は成功した" は移植患者の容態だけではなく
ドナーの心身の状態も含めて言って欲しい」
右腰を庇いながら椅子に座る女性Rさん(42才)は言う。
彼女は胸の間から両腰にかけ、縦20cm、横50cmの大きな手術跡がある。
夫に肝臓の6割を提供した後、腹部に膿がたまり、
2週間で退院の予定が3ヶ月に及んだ。
手術後約3年経った今でも傷が痛む。
手術同意書にサインはしたものの、本心から望んで提供した訳ではない。
「夫の命がかかっていた。だから、本心は口に出せなかった」
夫とは、遺伝的な肝臓病で余命が短いことを知った上で結婚。
夫は「俺は(生体肝移植は)いらない」と言っていたので
食事制限に気を配り、仕事が休みの度に
子供と3人で旅行して想い出作りに励んだ。
夫の体調が急に悪化したのは結婚8年目の夏。
万一、脳死移植の手術が受けれるかもと、
待機登録のために大学病院に夫婦で行った。
ところが医師の
「余命は3ヶ月。脳死は間に合わない。生体肝移植しましょう」
の一言で状況は一変する。
死を受け入れてかに見えた夫は、その日からドナー探しに躍起となった。
一度臓器提供を承諾したおじは、家族の反対で断念した。
家族と医師の会議で、夫の両親と姉は「提供はできない」と席を立った。
一人残ったRさんに医師は「誰もいなければ、奥さん、あなたですよ」
手術前々日、彼女は「怖い、手術したくない」と看護士に訴えるも、
予定通り手術は行われた。
手術の2ヶ月後、
ひと月先に退院した夫から病床のRさんの携帯に電話があった。
「離婚してくれ」
結局、手術の時以来顔を見ていない。
彼女は言う。
「夫も医師も、私のことは見てなかった。
見ていたのは肝臓だけなんでしょう」
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祐ちゃんへ
祐ちゃんがこの手紙を読んだ時、私のことをどう思うかな?
やっぱりひどい女だと思うよね? うん、仕方ないか……
短い間だったけど、
祐ちゃんと過ごした日々は私とっても幸せだったよ。
あなたをぎゅうっと抱き締めていっぱいキスしたこと。
飲みすぎた祐ちゃんが私の顔にもどしたりしたこと。
私が友だちと遊んで夜遅く帰ってきた時、
祐ちゃん、ずっと泣いてたこともあったよね。
そんなことも今になってみるといい思い出だよ。
でも、このまま祐ちゃんと一緒にいたらふたりともダメになるの。
私もっと祐ちゃんを傷つけてしまいそうで……
だから私、祐ちゃんの元を離れるね。
私まだ18歳だし、何とか頑張るよ。
祐ちゃん、あなたのことは私ずっと忘れないよ。
それじゃね。
手紙を読み返した私は、ため息交じりにそれを封筒に入れた。
「おい、ポストあそこにあるぜ。さっさと行って来いよ」
運転席の貴司が顎で指し示す。
「…うん」
私は車から降りると、重い足どりでポストへ向かった。
ポストの前に立っても、まだ私は躊躇っていた。
軽くクラクションが鳴らされ、ハッとして振り返ると、
咥えタバコの貴司が焦れた顔でこっちを見ていた。
私は頷くと、もう一度、封筒に目を落とした。
封筒を産着の中に忍ばせると、私は扉を開け、
ポストの中に祐樹を置いた。
「ごめんね祐ちゃん、ママを許してね 」
俺は今年 "国試受験" なんで家で勉強してたんだが、
夜中の2時くらいかな、部屋の壁から音がした。
ぽん、ぽん、ぽん
誰か壁を手のひらで優しく叩く様な感じ。
何だと思って壁を確認したんだが、誰もいない。
しかも、俺の部屋ってマンションの4階の隅に位置してるから、
誰かが壁の向こうから叩いてるってわけでもないはず。
まぁ、実際確認したらいなかったし。
しばらくするとまた、ぽん、ぽん、ぽんと音がした。
なんか気になって勉強に集中できないし、
だんだんウザくなってきた。
それからまた音がしてきたんで、その瞬間、
俺は壁に向かってドンッ! と思い切り叩いてやった。
今考えたら隣人さん、ごめんなさいって感じだけど、
ちょうど出かけてたのかな。
苦情がこなくて良かったよ。
そしたらピタッと音がやんで、3時くらいまで勉強して寝た。
次の日、夜中の2時くらいだったと思う。また音してきた。
ぽん、ぽん、ぽん
またしてもか、こんにゃろっ! と、
その日に母から隣人さんが
旅行に出かけて部屋を空けてることを聞いていたので、
今度は壁を蹴ろうかと思って近づいたら、ピタッと止んだ。
その時、なんだか早く寝なきゃと思って、そのまま風呂に入ったんだ。
そしてシャワーを浴びてる時、いきなり後ろからドンッっ! と蹴られた。
ちょうど足の裏で背中にベタッと押す感じで。
それからというもの、なんだか知らないけど、
俺が歩いていると、後ろから誰かが押してくるっていうことが多くなった。
この前なんか、電車をホームで待ってたら後ろからドンッっ! と押されて、
危うく落ちそうになった。
それが先月に2度も。
……それでマジ死ぬかと思った。
1度目は電車を待ってる時、
電車がホームに進入してくるところで後ろから押された。
「やばい、落ちるっ!」と思った瞬間、ガッシリと誰かが手首つかんで、
凄く強い力でホームの方に引き戻された。
そのまま尻餅ついちゃったんだけど、
なんだか助けてくれたのは人間じゃないなと思った。
だって、手首つかまれた瞬間、かなり熱かったし、
目の中に真っ赤なイメージが浮かんだから。
後ろ見たらそれらしい人はいなかった。
2度目はバス停で待ってる時、後ろから思いっきり押された。
ちょうど俺は重い肩掛けバッグ持っていたため、
バランス大きく崩して反対車線まで行って倒れた。
車が来て、轢かれるって思った瞬間、また凄く強い力で引き戻された。
間一髪。
ちょうど友人も一緒にいて、それを見てた。
「お前の動き、体操選手より不自然だったぞ」って言われた。
そりゃあ、当たり前だ。
俺の力じゃないもん。
その一緒にいた友人は、霊がみえるとか、そういうことに詳しくて、
心配してくれたので、俺はそれまでのいきさつを話すことになった。
「このところ、なんとなく感じてたけど、お前の後ろに誰かいるな」
「やっぱり?」
「うん、大きいモノ」
「どんなの?」
「んー。なんか真っ赤な男」
聞くと、別に害はないそうだ。
守護霊ってわけじゃないけど、その類だと。
たぶん、いろいろ助けてくれたのはそいつじゃないかってこと。
「じゃあ、後ろから押してきたのは?」
「……知らない」
じゃあ、誰だよ。
それからある日、
ゼミから友人と帰る途中、彼は道の影にいる男の子に気づいたそうだ。
「おい、たぶんお前を押したの、あいつだ」
真っ青で、大きな目でじっとこちらを見てたらしい。
「おい、ヤツをみるなよ。目ぇ合わせたら終わりだぞ」
いやでも、俺にはみえないんですけど……
俺らが通り過ぎた瞬間、宙に浮いて付いてきているとのこと。
ちょうど俺の頭の上あたり、1mくらい間隔を空けてピタッと。
信号待ちしてたら、案の定、そろそろと子供が近づいてきたらしい。
その瞬間ドンッて押された。
その次に手首つかまれてグイッと強い力で引き戻された。
「……なんだ? またかよ!」
友人はその瞬間をみてた。
「で、どんなだった?」
「んー。青い子供が、お前の背中を思いっきり押してった。
その次に、真っ赤な男が手首をつかんでお前を引き戻した。
でもなんか違うんだよな」
「何が?」
「青い子供が押すまで、真っ赤な男は腕組んでジッと見てるだけなんだ。
……たぶんお前、もて遊ばれてるぞ」
なんだよ、てことは、そいつらはグルだったってことか。
「いや、そういんじゃなくて、赤い方はたぶんおまえの守護霊。
青い子の力が強すぎて、手が出せないっぽい。
だから、ギリギリじゃないと助けられないみたい」
明日、知り合いの住職に相談してみてくれるとのことで、友人と別れた。
その夜、ふと考えたんだが、背中を向けてるから押されるんじゃないか?
幼稚な考えだったんだけど、明くる日、
信号待ちの時、道路を背にして待っててみた。
傍から見たら変だよな。
まあ、そしたら押されることは無くなったんだけど。
しかし同じ様にしてバス停で待ってた時、
隣の女の子がいきなり道路に飛び出して、車に轢かれた。
轢かれた瞬間をみてしまった。
誰かにドンッて押されて、倒れる様に飛び出して、走ってきたトラックに……
確かに俺は大丈夫だったけど、助けろよ、守護霊! 他人には知らんぷりか。
後日、友人に聞いたら、ある住職とその様を話した結果、
やっぱり部屋の音の主は、あの子供だったみたい。
人間の霊とかじゃないんだけど、無差別に害をなすモノらしい。
それよりも、轢かれた女の人が心配です。
正直、俺もその瞬間見てトラウマが。
あれから、友人も押されたとのこと。
やっぱり、他人には知らんぷりですかって、真っ赤な人よ。
でも俺だけにってのが、ありがたいし、なんとなくうれしい様な。
今度、一応ってことで、友人とお払い行ってきます。
【発見されたミイラ船】
1927年10月31日、 カナダ西海岸バンクーバー島にて。
ワシントンのシアトル港への帰路についていたアメリカの貨物船
「マーガレット・ダラー」号は、行方不明になっていた小型漁船「良栄丸」を発見した。
ボロボロに朽ち果てた船体、ミイラの転がる甲板、
激しい死臭、白骨体、足の無い死体。
船室には、頭蓋骨を砕かれた白骨体とミイラがあった。
船室奥の部屋には、おびただしい血痕が染み付いていた。
船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至るところに散らばっており、
コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。
船内には食物も飲料水も無く、エンジン機関部は全て破損していた。
ところが、船長室から見つかった3冊のノートには、
信じられない惨状が書かれていたのだった。
そのノートによると、良栄丸の情報は以下の通りだ。
●重量は19tで1本マスト
●船主は和歌山県の藤井三四郎
●船長は三鬼時蔵
●機関長は細井伝次郎
●乗組員は12名
●神奈川県の三崎港を出港したのは1926年12月5日
●約1年間漂流していた
ここで疑問が浮かぶ。
発見された死体は9体、記録には12名とある。
……3名はどうなったのだろうか。
【不幸な漁船】
1926年12月5日、神奈川県の三崎港を出港した良栄丸は、
千葉県銚子沖にマグロを求めて進んでいた。
天候も思わしくなく、エンジンが調子の悪い排気音を立てていたため、
翌12月6日に銚子港に寄港した。
しかし、エンジンに故障はなく、銚子の沖合いで大量のマグロを水揚げした。
その後で暴風に見舞われ、航行不能に陥ってしまった。
そして12月15日、銚子の東方沖合い1,000マイルほど流された時、
紀州船によく似た船が現れたので、信号を送ったり船員が叫んだりしたのに、
応答も無く通り過ぎてしまったという。
三鬼船長は漂流を決意、記録には「4ヶ月間は食べられる」と書いてあった。
12月16日にも「東洋汽船」と書かれた船が近くを通ったが、応答はなかったという。
なんとか日本へ戻ろうと努力したが、どうやっても逆に流されていった。
記録にはこう書かれている。
「どう工夫しても西北へ船は走らず絶望。ただ汽船を待つばかり。
反対にアメリカへ漂着することに決定。
帆に風を七三にうけて北東に進む。
しかし、漁船で米国にたどりつこうとするは、
コロンブスのアメリカ大陸発見より困難なりと心得るべし」
【恐怖の記録】
ここからは説明は要らないだろう。
彼らの記録文のみで充分に迫力が伝わってくる。
12月20日。 「二十日朝八時に至り風北にしておだやかなり。
西風毎日強い故、思ひ切つてアメリカへ乗出といふ太い事を
船長が相談を致した所、
まだ落合つかず兎に角アンカ三丁上る事にした。
十八日午前一時より廿日午前六時まで五十四時間流した。
責任のない人はどうでもよいが、嫁内小供のある人は実にお気の毒である。
又国元の方でも一方ならぬ大さわぎある。
何にしても約束であるとあきらめ居てる。
親のばちが子にくる。
昔々古人の伝へこの十二名は誠に因念の悪いものである。
万一、助かつたればそれこそ今度は皆大難を通越し運勢朝の昇る如し。
サヨナラ」
12月27日。 カツオ10本つる。
1月27日。 外国船を発見。応答なし。
雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした。
2月17日。 いよいよ食料少なし。
3月6日。 魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。
恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた。
3月7日。 最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、
「ひとめ見たい…… 日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。
全員で水葬にする。
3月9日。 サメの大きなやつが1本つれたが、
直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。
水葬に処す。
3月15日。 それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。
かわって松本源之助が筆をとる。
井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。
全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、
ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し。
3月27日。 寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、
「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える……」
などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。
……いよいよ地獄の底も近い。
3月29日。 メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、
オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。
その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。
のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、
みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ……
4月4日。 三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、
ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。
全員、人食いアリのごとくむらがり、
羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。
血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。
これもみな、餓鬼畜生となせる業か……
4月6日。 辻門良治、血へどを吐きて死亡。
4月14日。 沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。
人肉食べる気力あれば、まだ救いあり。
4月19日。 富山和男、沢村勘十郎の2名、料理室にて人肉を争う。
地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。
同夜、2名とも血だるまにて、ころげまわり死亡。
5月6日。 三鬼船長、ついに一歩も動けず。
乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。
ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、
そのままたれ流すはしかたなし。
5月11日。 曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。
山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。
あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。
友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。
骨のぞきて、この世の終わりとするや……
日記はここで切れている。
だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。
『とうさんのいうことを、ヨクヨク聞きなされ。
もし、大きくなっても、ケッシテリョウシニナッテハナラヌ……
私は、シアワセノワルイコトデス……ふたりの子どもたのみます。
カナラズカナラズ、リョウシニダケハサセヌヨウニ、タノミマス。
いつまで書いてもおなじこと……
でも私の好きなのは、ソウメンとモチガシでしたが……
帰レナクナッテ、モウシワケナイ……ユルシテクダサイ……』
【奇妙な事実】
しかし、記録を調べるうちに、奇怪な事実が浮かびあがった。
数十回に渡って他の船にであっていながら、
救助に応答する船は1隻としてなかったことだ。
そして、吉栄丸は太平洋横断の途中、
たった1つの島さえも発見できなかったのである。
しかし、アメリカの貨物船「ウエスト・アイソン」号の
リチャード・ヒーリィ船長は、次のように述べている。
「1926年12月23日、シアトルから約1,000キロの太平洋上で
波間に漂う木造船を発見したが、
救助信号を送っても返事が無いので近づきました。
しかし、吉栄丸の船窓や甲板に立ってこっちを見ていた10人ほどの船員は、
誰1人として応えず、馬鹿らしくなって引き上げたのです」
だが、良栄丸の記録にこのことは書かれていない。
……一体、彼らにはなにが起こっていたというのだろうか。
あともう1つ。
昭和35年1月12日、高知県土佐清水市の「第2良栄丸」が静岡県の沼津を出港、
1月21日夜に遭難した。
乗組の12人のうち3人が不明となり、9人は自力で小笠原諸島の無人島に泳ぎ着いた。
彼らはその90時間後に巡視船むろとに救助されている。
船名、乗組員数、行方不明者数が「良栄丸遭難事件」と奇妙に一致していると
騒がれたとのこと。
何か嫌なことがあって心が折れてしまった時、
ああ、もうこの世界には居たくないなーと感じた方におすすめです。
準備する方法:10階以上あるエレベーター
A.まずエレベーターに乗ります。
(乗るときは絶対ひとりだけ)
B.次にエレベーターに乗ったまま、4階、2階、6階、2階、10階と移動する。
(この際、誰かが乗ってきたら成功できません)
C.10階についたら、降りずに5階のボタンを押す。
D.5階に着いたら若い女の人が乗ってくる。
(その人には話しかけないように)
E.乗ってきたら、1階のボタンを押す。
F.押したらエレベーターは1階に降りず、10階に上がっていきます。
(上がっている途中に、違う階のボタンを押すと失敗します。
ただしやめるなら最後のチャンスです)
G.9階を通り過ぎたら、ほぼ成功したといってもいいそうです。
成功を確かめる方法は、1つだけあるそうです。
その世界には、貴方しか人はいないそうです
そこからどうなるかは、わかりません。
でも1つ言えることは、5階で乗ってきた人は、
人ではないということだけ……
プロフィール
HN:
ポテチ/ラダ
年齢:
50
性別:
男性
誕生日:
1974/04/11
職業:
会社員
趣味:
単館系映画鑑賞、音楽や絵画鑑賞、そして絵を描くことと...
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